忘れるための重なり 2018.03.01
いま、ここで、どうなるのか。どうするのか。
毎日、そんなことを考えている。
6歳からクラシックバレエを習っていた。
初めて発表会で踊ったのは「おもちゃの兵隊さん」と「おもちゃのチャチャチャ」。
踊るのは好きだったけど、恥ずかしさと緊張で、いつも仏頂面で踊っていた。
小さい頃のひとり遊びはバレエの先生ごっこ。
母がピアノの先生だったこともあり、家には音楽CDがたくさんあった。
その中から好きな音楽やバレエ音楽のCDをひっぱり出しては、ひとりでこそこそ先生ごっこをしていた。
ノートに振付を書いて「◯◯ちゃん、もう少しこうやってみて」と、そこに居もしない生徒にアドバイス。
この不気味なひとり遊びを止めなかった親に、感謝している…。
小さい頃から「俯瞰する」「観察する」ということをしていたのだろう。
私は成長が早くて小学校6年生で身長が145センチあった。いまは150センチなので、ほとんど小学生の時のまま変わっていない。
まだ子供の体型で華奢な同級生と、成長の早い自分を比べては足の形を気にしたり(スカートを履くことに抵抗がなくなったのは大人になってから)、からだが固いので怪我しないようにレッスンの30分前にはスタジオに行ってストレッチしていた(この習慣は今も続いている)。
踊っている時に「あ、楽しい!」と思った。これが私の自我が芽生えた瞬間。
小学校4年生か5年生だった。
それからは、発表会が兎に角楽しみで、何度も音楽を聴いては「ここはこんな感じで、音取りはこれやな」と妄想。
自分の番じゃない時もずーっと端の方で練習していた。いつもワクワクワクワクしていた。
「踊るの大好き!」という塊のような私を当時の先生達が応援し見守ってくださったことに、今でも感謝している。
+
そんな幼少期を経て、いまも踊り続けているのだが、時間が経つことでの変化が面白い。
知識が増えたり関わる人によっても変化はあるし、年齢を経ることでも変わっていく。
ストレッチ、ミツヴァテクニックというボディーワーク、バーレッスン、そしてその時々で興味のあることを練習する、からだで遊ぶ。
これが普段のトレーニングの中身。
ゆっくり、呼吸や自分の重さ、緊張と弛緩、感覚などをみて、繰り返しの中にある変化やつながりを発見する。
+
振付のある作品、即興作品、作品製作、そしてクラスを指導する時、からだの中にあるものを総動員して、いま目の前にある事象と対話する。
からだの中に積み重ねたことを一旦全部忘れて、いま、ここで、どんな新しいものを生み出していけるのか。何を感じるのか。
相手と自分と。時間と音楽と。観客と空間と。
そのための繰り返しであり、練習、鍛錬、反復、探求。
だから日々、自分と真剣に向き合って、遊んで遊んで遊びまくる。
何度も何度も練習したことを今、正に、ここで生まれたもののように踊れるか。
形や方法を学ぶことも大切なこと。そしてそれを超えていくこと。
自分をびっくりさせたい。
形や方法を知らなかったら、私はどんな動きをしていたんだろう。
本当の私ってどこにいるんだろう。
ぜーんぶ忘れてしまえたらいいのに。
何も知らない自分に会いたくて、今日も踊る。
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写真
奈良・町家の芸術祭「はならぁと」2015
中野温子キュレーション会場、宇陀松山 旧四郷屋でのパフォーマンス
「From your inside」
撮影:高橋拓人
映像
岩瀬ゆか「演奏と制作 05」
演奏:舩橋陽
ダンス:高野裕子
絵:岩瀬ゆか
会場:chef d’oeuvre
撮影・編集:キリコ
形のない比喩 2018.02.22
「息を合わせる」という言葉がある。
例えば、誰かと踊る時に、お互いを意識し合いながら、タイミングを合わせたりずらしたりして踊るということ。
音楽を演奏したり、言葉を話す時、そして普段の生活の中にも通じている、からだと言葉。
同じ流れやリズムをからだの中に持つことで、同調させていく。
人だけでなく、音楽や空間そのものとも交わっていく。その逆も然り。
「息」に関する考察って、面白い。
+
先日の稽古で友人がこんなワークを提案してくれた。
二人で正面向きに立って、10回、吸う吐くという行為を繰り返し、終わったらその場に座る。
はじめはお互いに呼吸を合わせて同じタイミングで吸う、吐く、そして座る。
相手の呼吸を知ろうとすると、自然に相手の口元や肩、胸元に目線がいく。
吸う、吐くの運動をベースに、呼吸に合わせながら動いたり、途中で一回手を叩いたり、様々なシチュエーションへ発展させていく。
「物理的」に息を合わせると、どうなるのか。
呼吸って普段は無意識下でやっている行為だけど、いざ意識を向けるととても不自然な行為に感じて。
呼吸の長さとか深さとか、数字で測ろうとするとよくわからなくなって。
自分に自分が戸惑う、そのわからなさが面白い。
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昨年上演した「息をまめる」という作品の終盤のシーン。
演者全員が、軽く目を瞑り、隣の人に触れるか触れないかくらいの距離に立つ。
ひとりひとり、自分のペースで呼吸をする。
アコーディオンの生演奏の音や、演奏者の呼吸が波のように伝わってくる。
緩やかな波がやがて他者の波と交わって、からだが触れていく。
手のひらや全身から伝わってくる他者の呼吸や動きをを感じながら、小さな波が大きな渦のようになる。
一人一人の息と音を感じながら、それぞれは自立し、自律している。
通奏低音のように流れる言葉にならない感覚、そしてそれを感じる、感じようとする、人間の姿が本当に美しかった。
余談だけど、手のひらと懐(ふところ)って似ているなと思う。
挨拶や愛情表現の時に抱きしめ合うのと、手を深く組み交わして握手するのって、なんだか似ているなと思う。
吸う、吐くという動きは肺が膨らんだり縮んだりする。
それに伴って肋骨、背骨、首、頭、骨盤などなど、からだ全体が緩やかに伸縮して全身に息や血を循環させていく。
私たち、実は緩やかに、ずーーーーっと動いている。
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「いき」は漢字で「息」と書く。
身体運動、生存するための運動としての呼吸でもあり、形のない、私という人間の「心」の比喩でもある。
他者と息を合わせるっていうのは、吸う吐くのタイミングを合わせるだけでなく、心を合わせるということなのかなと思う。
言い換えれば、相手の心に自分の心を寄り添わせていくこと。
息はまだまだ掘り下げていきたい行為のひとつ。
言葉を発語する感覚とか、それ以前の口内運動とか、息が形作るものをこれからも洞察し続けたい。
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写真
上段二枚
「息をまめる」ダンス甲東園2017
下段
芦谷康介と高野裕子 アトリエ公演vol.1
撮影:高橋拓人
ぽかーんとしたからだ 2018.02.15
からだって、建物みたいだなあと思う。
骨組みとはよく言ったもので、例えば立ち上がった時、足の裏が一番底辺にあって、二本の足は股関節から骨盤を拠点に一本の背骨となり、そのてっぺんに頭が乗っかかる。
私の足の大きさは23.5センチ。
二つの足の裏で自重を支えてバランスをとっているんだから、こりゃすごい。
からだは私が知らないうちに、多くの仕事をしてくれている。
感覚と身体運動について考える。
数年前に外科的な要因で腰の手術をした。
全身麻酔の手術から目が覚めて、1日目はベッドに寝たまま(後にも先にも、この1日が本当に辛かった…)
2日目、車椅子に乗って、足でぴょこぴょこ進みながらお手洗いに行けるように。
そのうち歩行器を使って病院の館内を周回したり、手すりを持って簡単なストレッチをするようになった。
この入院中、体験したことで忘れられないことがある。
術後、初めて車椅子から「立つ」時。
なんとも不思議な感覚に陥った。
「立てない」
なんというか、からだが解散〜!した状態で、それまで感じたことのない、感覚と実際の身体運動の差異を感じた。
ちなみに私の頭の中で交わされていたことはこんなセリフ。
私1「はい、立ちまーす」
私2「、、、あれ、、、どうやって立つんやったっけ」
私1「え、、、」
私2「どこに力を入れたらいいか、どこがどうなったら立てるのかわからない」
完全にずれていた。
ぽかーんとしたからだ。
そこで、ふと、術前に少し学んでいたボディーワークの言葉を思い出した。
「足の裏で床を踏んで、その力を骨盤、背骨に伝えて、その上に頭を乗せる」
そんな当たり前(もう、意識以前のことかも)を頭の中でゆっくり唱えると、「立つ」ことができた。
この「ぽかーん」とした一瞬の体験というのは、強烈だった。
それ以降、自身のからだの内的感覚を辿り踊ることや、外的な形の面白さに、以前よりも増して興味を持つようになった。
もう二度と体験したくないけど、確実にいまの私の芯になっている。
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人ってなまものだなと思う。
心もからだも。
植物や動物、季節や気候と同じように、その日その日で変化していく。
愉快な時もあれば辛い時もあって、柔らかい時もあれば硬い時もある。
春が来て夏が来て、秋になって冬になる。
ゆるやかにしなやかに、緊張と弛緩を繰り替えし、循環しながら生きている。
寝転がって、うーーーんと深呼吸して「さあ、今日はどんな感じ?」と日々新しくなる自分に問いかけてみようと思う。
近くにあって遠い、仄かに気になる存在 2018.02.08
近くにあって遠い、仄かに気になる存在。
それが私にとっての「言葉」である。
大学生の頃から、ダンス作品をつくるようになった。
それは、まだ形になっていない、けむりのような思考や想像を言語・身体化し、ダンサー、舞台美術家、音楽家、舞台のスタッフなど、関わってくれる人に対して伝えるという作業だ。
具体的に動きを「こうやってください」と見せ模倣してもらったり、手や身体を用いて身体感覚を伝えたり、時には「やわらかく」「タタタと」「その先を見るような眼差しで」など、ありとあらゆる言葉やイメージ、音楽、感覚を総動員してお互いの感覚をすり合わせて形にしていく。
同じく大学生の頃、演劇を学ぶ同級生達が学校の食堂やピロティーで「エチュード」という即興劇をしてよく遊んでいた。
いきなり目の前で始まる、架空の世界の会話を「どこからが虚で、どこからが実なんだろう」と思って観察していた。
なぜこの人たちは言葉を発するのか。
そして自分自身の作品は言葉を用いて製作するのに、作品中でなぜ言葉を発しないのか。
「言葉」とは一体何なんだろう。
ずっと、気になっていた。
ダンスを生業とする日々の中で、様々な人と出会う。
2010年、海外での作家活動を目指して滞在したドイツ・ベルリンでは、生活の中で話されている言語はもちろん、宗教、性別、習慣、人種などに対する様々な価値観の差異に心身を揺さぶられた。(そして今現在の日本での生活でも同じことを感じながら生きている)。
外国人、男、女、ゲイ、レズビアン、大人、子供、老人、障がい者、健常者、独身、既婚、年齢、職業などなど…。
それぞれが「社会」というふわっとした目に見えない塊の中で、カテゴライズされている。
私もその中の一人である。
でも一人一人の人間に丁寧に目を向けると、みんな同じ「人間」だと感じる。
違う言語を話していても、伝えたいという気持ちがあれば、伝わるものがある。
からだが流暢に動かなくても、一緒に踊ったり、そばにいることはきっとできる。大事なのは、その人自身の芯。
それは、ゆっくり深呼吸して、丁寧に見つめていくことで、見えてくる。いつの時代も、見えないものへの不安は誰もが感じることかもしれないけど、結構、意外と、大丈夫なのだ。
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言葉で伝えたいこと
言葉だから伝わるもの
言葉では伝えられないもの
言葉じゃなくても伝わるもの愛を伝える
それは
手に触れることかもしれない
手に触れないことかもしれない
好きな絵を見せることかもしれない
ご飯をいっしょに食べることかもしれない
とっておきの言葉をあなたに向けて発語することかもしれない
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昨年製作した作品に、初めて「言葉」が登場した。
演者は、いわゆるオノマトぺのようなシンプルな音の繰り返しや言葉になる以前の「音」を発音したり、意味のわかる日本語を発語したり。
既に在る(とされている?) 価値や意味をもう一度丁寧に見つめ、自分達の言語(身体言語も含め)を一緒に、探す。
これが答えだ、という確固たる保証や答えはないが、「私達の表現はこれだね」という互いの共感覚や覚悟がそこにはある。
そしてそれはなぜか、私達の目の前にいる観客に伝わっていく。
相手と自分の間に生まれるもの。
それが一体何であるのか、いつも、探している。
それがわたしにとってのダンスだ。
仄かに気になる存在に、少し近づいてみようと思う。
ただそこに在る、ということ 2018.02.01
ふと思い立って、2018年にアパートメントというウェブマガジンに寄稿していた文章を全9回更新していきます。
長野県松本市のほど近く。
大きな山々に囲まれた、静かな町。
山からごうごうと流れてくる水の音、石畳の道、夏はスイカ畑の農家の方がかけているラジオの音が聞こえる。
そして冬はとても、寒い。
夫の実家に帰省すると、二人でよく散歩に出かける。
雪がたくさん降った、数年前の冬。
積もる雪を踏みしめながら、その町にある古い神社へ歩いた。
静寂の中、まさに「しんしん」と降る雪。
耳の奥が震える。
雪の粒が地面に着地する音をも耳で追ってしまうような、深い静けさ。
高い木々が生えた社の裏が、お気に入りの場所。
葉からこぼれ落ちる粉雪に、木の間から微かに見える太陽の光が当たって、ガラスの欠片のように頭上にキラキラと降り注ぐ、降り注ぐ。
たった二人で、世界の、もうひとつ深い場所にいるような、
とても怖くて、美しい時間。
またあの場所に行きたいと想う、静かで、大切な場所。
+
夫の生まれ育った町、高知にも時々足を運ぶ。
市内からずっと離れた駅でレンタサイクルを借り、お弁当を買ってあてもなく走る。
ちょうど田植えが終わった頃、短い苗の緑が風にそよぐ。
鳥が足をパタパタと動かしながら駆ける速度を上げ、地面から空に飛び立つ姿を幾度も見た。
新しい道を見つけては、ぐんぐんと自転車を走らせる。
数年前から、旅先で出会った風景の中で踊る、ということを続けている。
「tu」というタイトルで、意味は「ただ」。
私は劇場やスタジオだけでなく、どんな場所でも、自分が「ここで踊りたい」と感じた場所で、踊る。
景色の中で、地面を踏みしめる音、その場に漂う空気や雰囲気、様々な出来事と一緒に踊ってみたいと心身が渇望する。
そしてまるで会話をするような感覚で、景色と対話する。
高知でも、そんな風景に出会った。
からだの赴くままに踊り、ふ、と立ち止まると、
びゅんっと、吹く風を感じた。
ただ、そこに在ること
そこに立つことで見えてくるもの、感じるものを
風景は教えてくれる。
+
日々、踊ることを通して出会う人や、感覚、感情を自分の言葉で綴っていきたいと思います。
二ヶ月間、どうぞよろしくお願いいたします。
書き始めた日。
記念に。
国立国会図書館に行ってきました📚
少し前のこと。
とある研究会を見学しに東京に行きました。
少し時間があったので、大学院の先生方から教えていただいた国立国会図書館に行ってみました。
国立国会図書館、一般的な図書館とは全然違って、まず本が置いていない!
というか正確には、ほとんどが倉庫にあります(種類によっては本棚で実際に見れるものもあります)
利用者はパソコンから自分が読みたい本を登録して、カウンターで受け取って読みます。
文献複写もできますが、借りることはできなかったかも...。
とにかく蔵書数がすごくて、今まで読んでみたいと思っていた雑誌や論文が読めて、しかも複写もあるということで、一人で「あれもこれも!」と静かに興奮してしまいました。
関西にもあるとのことなので、またゆっくり訪れたいです。
利用方法など詳細はこちらをご覧ください